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義風堂々年表年/出来事

 

1560

(永禄3年)

桶狭間の戦い

大軍を率いて尾張に侵攻してきた今川義元に対し、織田信長が少数の軍勢で奇襲を仕掛け勝利

与六の誕生

家臣団の結束を強めるため自ら武神となるべく“生涯不犯”の誓いを立てていた上杉景虎(後の上杉謙信)。子を持つことが許されない状況にあったが、恋仲となった妙姫が懐妊。誕生した赤子は与六(後の直江兼続)と名づけられるが、景虎の子であることは極秘とされ、直江景綱により隠し銀山奉行・樋口惣右衛門夫妻に託される

1561

(永禄4年)

菩薩像作成

謙信が、奈良の仏師に地蔵菩薩を彫ることを命じ、その像の目を与六の瞳を描き移した玉眼とさせる

1564

(永禄7年)

上杉景勝の誓い

9歳の景勝が、謙信の子・与六と自分が越後の要として強い絆を結ぶと誓いを立てる

1568

(永禄11年)

与六の坊主修行

幼き日の与六が、越後坂戸「雲洞庵」で坊主修行。そのさなか、敷石の裏に法華経が刻まれているか確かめるために土を掘り起こしていたのを、分珍(後の茂助)に目撃される

1573

(天正1年)

室町幕府の滅亡

信長が足利義昭を京から追放。室町幕府が滅びる

1576

(天正4年)
1月 信長が安土城の築城を開始

信長見物

与六、“信長見物”で安土へ。大人になった茂助や、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に雇われたくの一・志乃 と出会う
与六、秀吉と邂逅

茂助の仇討

鬼斬りの権左に最愛の妻とお腹の子を惨殺された茂助が、死を覚悟した仇討を決意。与六の助太刀を得て、権左を討ち果たす

信長との謁見

命を懸けて信長と謁見した与六、信長 に認められ、その場で酒宴が催される。その後、妙姫の形見である檜扇を、母の形見として与えられた与六は、自分が謙信の落胤であることを確信する 与六、茂助を槍持ちとしてお供に加える

12月 謙信、8月に越中を平定後、加賀と能登に進出 与六、能登の七尾城の攻城戦のさなか、景綱の一人娘で後の伴侶となるお船と 再会する

1577

(天正5年)
3月 景綱が死去
7月 謙信、再び全軍をあげて能登・七尾城攻略を再開
8月

加賀侵攻

七尾城の救援要請を受けた信長が、柴田勝家を大将に大軍勢を加賀に侵攻させる。しかし、謙信の策略で七尾城が陥落。その後、謙信は電撃の速さで加賀に軍を進め、信長軍と対峙した。いっぽう、七尾城が落ちたことを知った勝家は、陣払いを指示するが、景勝と与六の夜襲を受け大敗する

茂助の仇討

鬼斬りの権左に最愛の妻とお腹の子を惨殺された茂助が、死を覚悟した仇討を決意。与六の助太刀を得て、権左を討ち果たす

信長との謁見

命を懸けて信長と謁見した与六、信長 に認められ、その場で酒宴が催される。その後、妙姫の形見である檜扇を、母の形見として与えられた与六は、自分が謙信の落胤であることを確信する
与六、茂助を槍持ちとしてお供に加える
12月 謙信、8月に越中を平定後、加賀と能登に進出 与六、能登の七尾城の攻城戦のさなか、景綱の一人娘で後の伴侶となるお船と 再会する

1578

(天正6年)
3月 謙信死去
謙信亡き後、景勝と上杉景虎の勢力が権力争いを始める

御館の乱

景勝の軍勢が春日山城を占拠したことを受け、景虎は春日山城から4km離れた御館で籠城を開始。景虎の後ろ盾である北条軍が、景勝の本拠・坂戸城を攻めるが、雪のため撤退。翌年、景勝が景虎に最終決戦を宣言。御館は攻め落とされ、景虎は相模へ逃れるが、味方の寝返りにあい、自害する

1580

(天正8年)
6月 御館の乱が景勝の勝利で終結。謙信の正統後継者に
与六、名を樋口兼続と改め、上杉家の家老に

1581

(天正9年)
兼続21歳、直江家に養子に入る形でお船と婚姻を結ぶ

1582

(天正10年)
3月

信長侵攻

柴田勝家を総大将とする織田軍が上杉方の富山城を奪取。上杉家の越中の拠点・魚津城を完全包囲する。それを救援するため、兼続は織田軍を春日山城におびき寄せて激しく交戦。織田軍を撤退に追い込む。そのさなか、織田方として参戦していた前田慶次が、遠方から兼続と矢を射かけ合い、初めて相対す

6月 近衛邸に現れた信長、地蔵菩薩を持ち去る
本能寺の変 信長死す

魚津城争奪戦

勝家により魚津城が落とされる。しか し、信長の急死を知った勝家は、魚津城から撤退。いっぽう、志乃から信長の死を伝えられた兼続は、全軍撤退した織田方に代わり魚津城を再奪取する

山崎の合戦

本能寺で信長を討った明智光秀と、その知らせを受けて備中高松城での戦いから引き返してきた秀吉が山崎で対峙。秀吉が勝利し、光秀が討たれる

1583

(天正11年)
7月

北条侵攻

柴川中島に進軍した北条氏直を迎え撃つため、景勝と兼続も着陣。その後、兼続が、内応していた魚津城の城主・春日弾正を斬り、氏直を撤退させる
10月 前関白・前久、坊主姿で兼続と接見

三成との邂逅

長浜城下に潜入していた兼続、それに気づいた石田三成と接見。天下について語り合う

兼続と刺客の戦い

三成の家に間借りしていた兼続、新発田重家が差し向けた刺客13人を返り討ちにする

1585

(天正13年)
8月

秀吉進軍

越中の佐々成政の屈服を目論む秀吉が、大軍をもって景勝、兼続の前に現れる。それを受け、景勝は秀吉と成政征伐を支援する盟約を結ぶ。その後、景勝と兼続は、上杉方の落水城で秀吉と会見。秀吉は、兼続を家臣にすることを望むが、三成の機転で秀吉と景勝が和解。戦が回避される

1586

(天正14年)
5月 景勝と兼続、上洛のため越後を発つ
6月 大阪城に登城した景勝を秀吉が迎える。これにより、上杉家は秀吉を天下人と認め、臣下となる
兼続、千宗易(後の利休)と接見

兼続と乱破の戦い

景勝と京に滞在中の兼続、本多正信の命を受けた服部半蔵の乱破に襲撃されるも撃退 秀吉が、兼続、三成、前久を宗易の茶会に招く

1587

(天正15年)
9月 秀吉の了解を得た景勝、新発田重家討伐のため挙兵
兼続の活躍で、重家が自害。6年の争いに終止符
慶次、前田利家の元を出奔し、浪人に

1588

(天正16年)

慶次と邂逅再び

重家を討ったことを秀吉に報告するために上洛した兼続は、後妻打ちの仲介を頼まれる。当日、相手方の仲介人として姿を見せたのは偽慶次だった。そこに現れた慶次が偽物を蹴散らし、兼続と共に後妻打ちを見届ける。この出来事が、兼続と慶次が直接対面する最初の機会となった

1589

(天正17年)
6月

佐渡平定

景勝が、秀吉の命を受けて佐渡平定のために挙兵。この戦いに慶次も同道する。佐渡を二分していた河原田本間と羽茂本間に対し、兼続が義に従って両家を成敗。佐渡を平定する

8月

秀吉との謁見

秀吉が、兼続と慶次による佐渡の戦勝報告を所望。上洛した慶次は、京の遊郭の遊女・薄雲から秀吉との対面のヒントを得る。その後、兼続と慶次は秀吉と謁見。慶次は、まげを横に結い、顔をそむけて秀吉に頭を下げるが、その命懸けの傾きに義風を感じた秀吉は事を起こさず

左近との対面

左近との対面 秀吉の小姓として謁見の場に居合わせた柳生宗章が、帰路についた兼続を待ち伏せ。刀を抜き一触即発の空気となるが、秀吉の直臣・島左近に制止される。このとき、左近は秀吉から小田原攻めの伝言を託されており、それを兼続に伝えた

吉継との出会い

兼続が、謙信ゆかりの神社で秀吉の寵臣・大谷刑部吉継と出会う。その後、小田原攻めに対する上杉家の存念を問われると共に、吉継が隻眼になった理由を聞く

1590

(天正18年)
 

小田原の役

秀吉から小田原征伐の命を受けた景勝、前田利家らと北条方の大道寺政繁の守る松井田城を攻める。その後、松井田城を落とした景勝と兼続、秀吉の命で八王子城の攻城戦に挑む。その後、八王子城も落城。7月には、北条氏直が切腹し、小田原城が落城。「小田原の役」が終決する

正宗と秀吉の会見

小田原への参陣が遅れた伊達正宗が、秀吉と会見。軍師・片倉小十郎の策が功を奏し、秀吉の許しを得る。

菩薩像探索

小田原征伐のさなか、家康は直臣・井伊直政から、兼続が謙信の遺児である可能性を聞く。さらに、坂下左玄から地蔵菩薩の存在を聞いた家康は、像の入手を伊賀忍軍を率いる服部半蔵に指示する。半蔵の指示を受けた左玄は、地蔵菩薩探索中の次郎坊を急襲。しかし、いくさ犬・白雲がそれを救う

像を巡る攻防

次郎坊が、本能寺で左玄と再びあいまみえる。そこに現れた謎の老人から、信長の命で菩薩を隠した場所について、次郎坊が信長の戒名を、左玄が墓のありかを聞く。その後、謎の老人の正体は、本能寺で死んだはずの信長の抱え忍び・伴太郎左衛門と判明する

7月

秀吉の全国統一

北条氏を討った秀吉が全国を統一。その後、朝鮮に進出する意向を示す。それを知った秀吉の片腕・豊臣秀長は、兼続に秀吉の朝鮮出兵を止め、上杉に豊臣を守ってほしいという遺言を託される

伊賀忍軍との戦い

兼続、次郎坊が左玄率いる伊賀忍軍と一人で戦っていることを知り、茂助と共に助太刀に向かう。それを見届けるため島左近も同道。その後、兼続は奇策を用い、高野山で伊賀忍軍を撃破。地蔵菩薩の入手に成功し、像を灰にすることで騒動に終止符を打つ

1592

(文禄1年)

文禄の役

秀吉の指示で朝鮮に出兵。当初は有利に戦いを進めていたが、明からの援軍などで窮地に。翌1593年に休戦を余儀なくされた

1597

(慶長2年)

慶長の役

講和交渉の決裂により、再び交戦。しかし、翌年の秀吉の死を受けて撤退。日本の敗北に終わった

1598

(慶長3年)
1月 上杉家が会津に国替え

秀吉の死

秀吉の死 伏見城にて秀吉死去。三成ら豊臣直臣の奉 行衆のみで阿弥陀ヶ峰中腹に密葬される。その後、家康と利家の連名で朝鮮からの兵の引き上げを命じられた三成は、家康の動向を意識しながらも九州へ。12月には朝鮮出兵の後始末を終え、京に帰還した

慶次との再会

慶次との再会 兼続、会津から京への道すがら、諸国の実情を見聞。そのさなか、京の四条河原で、慶次と再会。同時にお国(後の出雲の阿国)と出会う

家康の暗躍

家康、豊臣の事実上の頭領である淀の方を 懐柔。そのいっぽう、家康の命を受けた三代目半蔵が、兼続の命を狙う

1599

(慶長4年)
1月 伏見城にて、利家が豊臣秀頼の守り役を宣言
利家、秀頼を連れ伏見城から大阪城に移る

1600

(慶長5年)

兼続の直江状

景勝に謀反の疑いを抱いた家康が、徳川家の顧問的役割を担っていた臨済宗の僧侶・西笑承兌に命じ、景勝の早期上洛を促す書状を送らせる。しかし、兼続はそれを拒絶し、家康を挑発するような書状“直江状”を送り返す。これにより会津攻めが決定的となる

関ヶ原の戦い

景勝の上洛拒否を引き金に家康が大軍を率いて上杉討伐のため出陣。これを受け、三成が徳川討伐の挙兵を宣言。報を受けた家康は、最上家や伊達家に上杉討伐を依頼し、自身は三成の軍勢を討つべく大阪方面へと引き返す。その行軍のさなか、家康を中心とする東軍と三成率いる西軍が関ヶ原で対峙し、雌雄を決する
戦国時代末期 『義風堂々!!―前田慶次 月語り―』出羽国(現・山形県)、米沢の堂森山「無垢庵」で、慶次と兼続、一刻ほど酒を酌み交わす。その後、慶次が兼続の歴史を回想

戦国時代末期 『義風堂々!! 直江兼続―前田慶次 酒語り―』堂森の肝煎り・大野澤太郎兵衛の屋敷の新築祝いで酒宴が催され、慶次が参加。柱に傷をつける。その酒宴に兼続も合流。酒を酌み交わしながら、2人の物語を語り合う

江戸時代初期 『義風堂々!! 直江兼続―前田慶次 花語り―』兼続、慶次、志乃、出羽・米沢城下にて、関ヶ原の戦いに至る歴史を回想